哲学者が見たエジプト社会 ― カイロ回想(2)


価格交渉と社会の絆

 ルクソールのスークで人々が往来する様子を見て、カイロの交通混雑の謎を説く鍵を見つけた時のことを、前回は書かせていただいた。そして、西欧近代型の文化では、人々が自分と相手とを超えた第三の基準を仲立ちに行動するのに対して、エジプトの人たちは、行動の基準を相手との関係そのものに置いていることを述べた。このような見方はどの程度当を得たものであろうか。日本人(ないし、いわゆる「先進国人」)にとって一見奇異に思われるエジプト人の行動が、そのような見方を取り入れることでより良く理解できるようになるならば、多少とも有効な見方であると言えるだろう。

 そのことを検証するために今回は、エジプトにおける価格交渉について考えてみよう。定価、正価がなく、その都度値段の交渉をしなければならないのは煩わしい、と多くの日本人が感じるのではないだろうか。私はとくにタクシーに乗る時の価格交渉がおっくうで、通常なら歩かないような距離をカイロでは何度も歩いたほどである。買物するときも、値札のない商品を見ただけで不安と恐怖の気持ちに満たされた。結局定価の明示されたスーパーなどに足が向かう。しかし、どうしてそのような厄介な方法が生き延びるのだろうか。皆がいやがるものなら、長い歴史の中で淘汰されるはずではないか。煩わしいことがあっても、不満な人たちがいても、トータルなメリットが多いと判断する人が多いからこそ存続し続ける、あるいは少なくとも許容されているのに違いない。それはなぜだろうか、と私は自問した。

 定価がないところでは、価格を決めるのは売り手買い手の具体的な状況である。そこでは、需要と供給のバランスだけでなく、買い手が具体的に何を期待しているのか、その人の支払い能力はどの程度か、買い手はその物品の品質をどのように評価しているのか、などさまざまな要素が考慮される。お金がないけれどもどうしてもこれが欲しいと思う人は、必死で値切ろうとするであろう。逆に、経済的ゆとりのある人は、少し高めの売値でも気前よく受け入れるであろうし、そうすることが社会的責任なのである。そのような違いを私はカイロ人たちの間で何度も目撃した。それは累進課税にも似た、富の再配分システムであると言える。その背後には本来のイスラームの精神が生きているのであろう。売り手と買い手とは、価格交渉という土俵の上で、さまざまな情報を交換しあい、相手を評価しあい、法律に基づく税制のような第三の基準によらず、相手との相関関係の中で富の再配分を行っているのである。

 富の再配分ということのほかにも、このように当事者の交渉によって価格を決めることのメリットは多い。定価販売をする社会では、まず値札を作る、貼るなどの付加的な仕事が加わってくる。それは当然売値を押し上げる。しかしそれよりももっと重要なことがある。定価販売をする、ということは、同種の商品をすべて同じ値段で売る、ということである。ところが、ものはすべて同じではない。果物一つ、野菜一つとっても、大きさや味や外見などの品質には大きな違いがある。それにもかかわらず定価販売をしようとすると、均一な品質のものを作らねばならない。相応の努力とコストがかかる。あるいは、規格を整備して、品質毎のクラス分けが必要になる。これらは多くの仕事を要求し、雇用を拡大し、物流を活発化する反面、売値を更に押し上げる。果物を例にとれば、容易に傷が付くし、どこにどの程度傷が付くかというようなことは予想できない。傷のない果物を売る、ということを徹底し、買い手もそれを要求するようになれば、当然売り物にならないものの割合が増加して、結果的に売値を何倍にも跳ね上げさせる。しかも、この売れないものの割合は買い手には知らされることがないので、必要以上に価格を上げてもわからない。これらの複合形態が日本(ないし先進国)の物価高の一つの要因であるといえよう。日本では、傷ものの果物は、ジュースにでもなればともかくのこと、末端小売りで発見された傷物はほとんど破棄される。その結果、世界の別のところでは大勢の人が飢えているのに、日本ではものが惜しげなく捨てられる、という不名誉な事態になる。


定価販売の起源とコスト

 そもそも、定価販売は近代の産業革命によってもたらされた大量生産と結びついて発達した。工業製品は、はじめから量産、つまり同じ製品がたくさんできることを想定しているから、それらを定価で販売することは容易であり、自然でもある。不良品を防ぐ、というような品質管理は必要だが、ある程度の品質レベルが確保できれば、あとは一定期間の品質保証を提供することによって、不良品などの品質の格差を補償できる。これに対して、流通の多くが非工業製品やサービスであるような場合は、個々の商品やサービスの品質の揺れ幅が大きくなりやすい。定価販売は無駄が多く、コストがかかる。結果的に、経済に余力がない場合は負担が大きくなる。そしてそのしわ寄せは貧しい人々に降りかからざるを得ない。こうしてみると、価格交渉システムは、定価販売に比べて流通を簡素化し、資源の節約やコストダウンに有利であることがわかる。

 カイロの日常生活を、富の再配分という見地から観察していると、実によくできた社会であると思うことが何度もあった。もっとも、そのような富の再配分が機能して、貧者救済の互助システムが社会に存在するのをよいことにして、貧富の差を解消するために社会政策に取り組む意欲が少ない、と非難することもできるだろう。すべてのことには裏と表がある。他方、社会保障制度が整備されると同時に、人と人との信頼関係、特に報酬などを度外視して人を助けようとする意識が希薄になる危険は、先進国においてみられる現象である。社会福祉の進んだ国に高い自殺率が認められるのも、その一例である。また日本の介護制度なども、評価される面と同時に、ケアの問題をビジネス化することで生じるマイナス面をも見落としてはならないし、そのような社会的信頼関係の崩壊を追認するような制度を、相互扶助精神が生きているところに不用意に輸出してもならないと思う。

 価格交渉が機能するためには、当事者たちが十分なコミュニケーション能力と、さまざまな関心に対するセンシビリティ、さらには物質的なものから精神的なものにまたがる社会的な価値観を共有していることが前提となる。そのようなさまざまな要件を共有する上で、イスラームを核としながらも、さまざまな非イスラーム的なものをも包み込んで共存させるアラブ文化が果たす役割は大きい。

 しかし、この特性がまた同時に、価格交渉の弱点ともなる。この文化圏の価値観を十分に理解せず、またコミュニケーションがよくとれないと、価格交渉もうまくできない。不本意な条件で買物をして、「ぼられた」という不快感を味わうことになる。しかしそれは、私たちに価格交渉のセンスが欠けているから、ということもあると思う。カイロに来て間もない、エジプト語も解さない私には、人々の外見やひと言ふた言の英語のやりとりでは、相手の境遇など見当もつかない。全体として経済的に裕福な日本人がみずからの豊かさを肯定し、富の再配分という責任を果たすつもりで対応すれば、本人も傷つくことはないだろう。これは、個人レベルだけではなく、国家のレベルでも言えることである。ここで板挟みにあって一番つらい思いをするのが、「先進国」日本の企業人たちかもしれない。


エジプト人の人なつこさ

 エジプトの人々を観察すると、彼らはわけもなく一緒にいることを楽しむように思えることがある。もっとも、「わけもなく」というのはいわゆる「先進国人」のせりふである。というのは、私たちは無意識のうちに、ビジネスに関係し、利益の上がることこそが、最も優先順位が高く、なすべき「理由」が強いと考えるからである。そのため、社会生活は経済生活へと一元化し、儲けの役に立たない営みや人間関係は無駄と考えられ、人件費の節約の名の下に極小化される。スーパーマーケットでは、生きた人間はただレジに立って商品の価格を入力し、カネを数え、商品を管理するためだけに存在する。いずれはロボットに移管される仕事である。これに対して伝統的な社会では、一緒にいること自体に幸福を感じる日常の人間関係が、価格交渉に必要なコミュニケーションのバックグラウンドをなしている。しかしそれが、定価販売によって不要になり、公の生活からは姿を消してゆく。日本人は、煩わしい人間関係のしがらみから解放される、と表現するだろう。それと共に、経済的関係以外の豊かで多様な人間相互の関係は「プライバシー」と呼ばれる狭い生活領域に押し込められ、隔離される。

 私たちの日本でも、数十年前までは伝統社会の特徴を多く残し、社会全体で、あるいは隣近所での人間関係が豊かだったと思う。見知らぬ大人が道で子どもの遊び相手をしてくれる。(今そんなことをしたら、誘拐の嫌疑をかけられる。)店先で店主とお客たちが、商売そっちのけに秋祭りの準備の話に熱中している。(今そんなことをしたら、店を傾ける愚行、あるいは顧客を確保するための戦略としか見られない。)そんな思い出がたくさんある。そのような人間関係はまず都市部で失われ、いまや地方でも次第に失われつつある。故郷喪失感と孤独感を懐きながら世界を旅する日本人は、世界の多くの文化には、現代も、人と人との相互関係を育むことを生きがいとする伝統的な生活が息づいていることに気づくであろう。

 しかしまた、西欧的経済社会は世界をその支配下におきつつある。エジプトもその例外ではない。すでに多くの人が、自己利益の追求としての経済活動に人生の目的を見いだしはじめている。そうなると伝統的な共同体や人間関係すらも、自己利益追求の手段として利用される。人と人が相互の状態を知り、必要に応じた富の再配分をするメカニズムとしての価格交渉が、そのフレキシビリティを利用(悪用)して、なんとしてでも相手から多くの貨幣を得ようとするあくなき欲望充足の手段ともなりうる。そしてそれらの欲望は、相互的な価値の共有やコミュニケーションの欠落した関係、特に日本人などの異邦人との関係において噴出しやすいのではないかと思われる。そのような状況に何度も陥った者には、エジプト社会は耐え難いものと映るだろう。しかしその外壁を乗り越えて、日本が失いつつある人と人とのつながりを、エジプト社会の中に見いだすことができれば、その苦しみは報われてあまりがあるのではないだろうか。

(未完)





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