交響詩・エアマナリヒの謎
エアマナリヒとは何者か ― なぜシンフォニーなのか
鎌田 康男

 『エアマナリヒ』は、その初稿が1861年、ニーチェ19歳の時にピアノ曲として作曲された。四手用の譜も作成され、オーケストラ譜やオペラ台本までも計画されていたようである。エアマナリヒをテーマとして若きニーチェは、ほかにも詩と論文を著した。いったいエアマナリヒとは何者か、なぜ若きニーチェはエアマナリヒにそこまでこだわったのか、そして、この10分そこそこのピアノ曲(演奏@YouTube)をなぜシンフォニーと名付けたのか ― ニーチェ自身は「交響詩」という呼称を使っていない註1 ― 以下に簡単に吟味したい。

エアマナリヒとは何者か
 エアマナリヒは、東ゴート族の王(即位350年頃)である。本来スカンディナビア半島南部に居住したゲルマン人の一族であるが、民族大移動時代にはすでに黒海沿岸に移り住んで、王国を築いていた。しかし375年頃、侵入するフン族に敗れ、エアマナリヒは殺害された。東ゴート族はビザンチン帝国領内に逃れ、多くの者がビザンチン兵士となった。勇敢ではあるが、土地も財産も失った彼らには、それしか選択の余地はなかったのであろう。一世紀ほど経てビザンチン帝国の将軍となっていた大テオデリックは、東ゴート族兵士を中核とする軍団を率いてイタリア半島に侵攻し、オドアケルの統治する西ローマを滅ぼした。その後ラベンナに拠ってビザンチン文化とローマ文化との融合を進めるなど、東ゴートの果たした歴史的役割は大きい。
 エアマナリヒの物語 ― 乙女スヴァンヒルトの婚礼の行列を待つエアマナリヒは、すでに老年を迎えている。婚礼の行列を警護するのは息子ラントヴェである。だがこの婚礼は、ラントヴェの花嫁強奪未遂と処刑という破局へと突進する。父子を敵対させ翻弄する愛と憎しみ、強い意志の引き起こす激情と感傷との交錯に、若きニーチェは音響によって形を与えようとする。それは、すでに語られたストーリーの再現、描写音楽ではない。むしろ言葉が表現しえない意志と情念に、言葉に先立って形を与える根源的な詩作[ポエシス]であった。実際、この作曲の翌年の1862年になってようやく詩「エアマナリヒの死」が書かれる。音楽は意志の直接的表現であり、他の芸術・文学表現よりも根源的な営みである、とするショーペンハウアー哲学との出会い(1865年)の下地は、このときすでに整っていたといってよい。
 ニーチェの『自伝集』によれば註2、詩作によって具体的なイメージを獲得したエアマナリヒ像から逆照射する形で、前年のピアノ曲に手が加えられ、エアマナリヒ・シンフォニーの最終版が成立したことが分かる。さらに翌1863年には、中世叙事詩『ヒルデブラントの歌』ほかさまざまなエアマナリヒ伝承の比較研究に基づく論文「エアマナリヒ論」が執筆された。この論文についてニーチェはボン大学学生時代の自伝に、「私が高校時代に書いて、自らほぼ満足しているただ一つの作品」註3であると説明しており、その成果が、若きニーチェを文献学に進ませた外的機縁になったと思われる。しかし若きニーチェを文献学へ決断させた思想的背景は、人間の合理的計算能力と現実操作能力を超える世界の複雑性への視線であった。この操作不可能なものを運命と呼ぶならば、若きニーチェを文献学へ導いたのは、まさしく彼に芽生えつつあった近代合理主義批判としての「運命愛」の思想であった。その後、1865年には、オペラ『エアマナリヒ』も構想されるが、完成を見ることはなかった。

なぜエアマナリヒ・シンフォニーなのか
ニーチェはなぜ、演奏時間10分そこそこのピアノ作品にエアマナリヒ・シンフォニーという名を与えたのであろうか。この問いに答えるためには、「シンフォニー」の本来の意味に立ち返らなければならない。シンフォニーとは、複数の音が渾然一体となって響くことを意味し、古代ギリシャ以来の伝統において、人知を超えた宇宙のハーモニー(harmonia mundi=天体の音楽)を聴き取る営みに属するものである。17世紀にシンフォニア・シンフォニーという言葉が、人為(人の声)を交えぬ合奏曲を指すために用いられるようになったとき、そこにはまだ古代の余韻が響いている。しかし近代ヨーロッパの啓蒙主義=人間(中心)主義の勃興とともに、シンフォニーは人間が設計・構築(compose)するオーケストラのための音響空間[ソナタ]、いわゆる「交響曲」へと形式化されていった。近代市民社会の形式主義は、世界の主人であるべき人間が逆に自分が設計・構築したはずの世界の歯車になり下がる、というウォータン的自己疎外を引き起こす。この古典シンフォニーの自己矛盾を突破しつつ、シンフォニーの理念を人間の設計・構築への意志(自由)と人間が操作できないもの(運命)のおりなす複雑にして壮大な音響悲劇へと高めること、これが ― 実際にどこまで古典シンフォニーを超えることができたか、という問いは当面棚上げするとして ― ロマンチック・シンフォニーの基本理念であった。この基本理念を共有することで、若きニーチェの中にすでに、「音楽の精神による悲劇の誕生」が始まっていたのである。
 当然、この新しい音楽表現を「シンフォニー」という古い革袋に入れることによる誤解の恐れもあり、「シンフォニー」に代わって1850年代にはいるとしばしば「シンフォニー的詩作(交響詩)」という呼称が用いられることになった。交響詩という別の呼称を用いようが、シンフォニーという表現に新たな意味を込めようが、いずれにせよ古典交響曲との基本理念の違いを強調することが肝要であり、単に短い交響曲が交響詩である、というようなものではない。標題音楽という用語は、ロマンチック・シンフォニーの根本理念を見誤らせる危険がある。むしろ、現代にいたって人間環境・自然環境を巻き込む全面的な環境危機をもたらすに至った偏狭な人間中心主義・合理主義を体現する古典シンフォニーの克服こそが模索されているのであり、ニーチェもまたこのロマン主義的問題意識を共有しつつ、短いピアノ曲にあえて「シンフォニー」の名を与えたのであった。
 その命名はニーチェ自身が告白するように註4、直接にはリストの『ダンテ・シンフォニー』(四手ピアノ譜)に触発されている。さらに、リストからの作曲技法上の影響も大きい。しかし、同じ年1861年に接したワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のピアノ譜註5によって、ピアノの「シンフォニック」な可能性に目覚めたことも、エアマナリヒ・シンフォニーをまずピアノ曲として作曲することになるきっかけであったろう。トリスタンとエアマナリヒの親近性は、両者が共に、非ゲルマン起源の題材をゲルマン伝承に取り込んだものである、ということだけにとどまらない。
 エアマナリヒ・シンフォニーはオーケストレーションが予定されていたとしても、これを単にオーケストラ・スケッチと片づけてしまうことはできない。また古典シンフォニーの基準を充たさないという口実から「交響詩」と言いかえることも必ずしも適切とはいえないだろう。ピアノで演奏されようが、オーケストラで演奏されようが、演奏時間が長かろうが短かろうが、「エアマナリヒ」はその素性からいって、ひとつのロマンチック・シンフォニーなのである。



1 ベーレンライター版の楽譜では「交響詩・エアマナリヒ」となっているが(Friedrich Nietzsche: Der musikalische Nachlass. Basel: Bärenreiter, 1976, S. 17 ― Ermanarich. Symphonische Dichtung.)、筆者が調べた限り、ニーチェ自身の著作や自伝には「交響詩」の表記は見あたらない。いつから、なぜ「交響詩」と呼ばれるようになったのか、更なる調査が必要である。(本文へもどる)
2 ちくま学芸文庫『ニーチェ全集』15、349−356ページ等。(本文へもどる)
3 前掲書379ページ。(本文へもどる)
4 前掲書350ページ参照。(本文へもどる)
5 前掲書347ページ、およびニーチェ『この人を見よ』前掲書62ページ参照。(本文へもどる)




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