『自由』に代わる理念は現れるか?

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      【目次】

       自由のなれのはてとしての体験至上主義

       自由観の歴史 ― 自己解放から自己主張へ

       近代市民社会における自由の自己目的化と神話化

       自由の克服か、同苦(Mitleid)か?


自由のなれのはてとしての体験至上主義

 「個人の自由」は、基本的人権のかなめとして近代民主主義を支えてきた。カント哲学の伝統によれば、実践のレベルでもっとも高次の意志の働きは、理性的・普遍的な存在秩序(道徳律)を実現することである。従って啓蒙された個人が自由を正しく用いるなら、個人の意志と共同体の普遍的な意志とが衝突することなく、共に実現するはずであった。そこに、個人の自律(Autonomie)と、民族の自治(Autonomie)の理念が成立したのである。個人の自由の理念は、産業革命をにないつつ、古い社会体制、慣習や価値観を破棄し、あらたな個人の生き方と社会のあり方を構築しようとする近代市民の思考・行動様式そのものの表現であった。しかし、近代市民社会の確立とともにその歴史的・文化的・社会的な背景から切り離され、あたかも超歴史的真理であるかのように扱われるようになった。

 自由概念の絶対化と並行して、共同性の崩壊と、個人の孤独化が進んだ。共同性の基盤を失い、いまや経済活動によってのみ他の個人とつながることになった近代市民たちは、ますます共同性への通路を失って自分自身に投げ返される。ところで、そのような共同性の通路を必要としないものは、個々人の「感覚」に自己完結する「体験」である。

 体験至上主義は現代の社会に蔓延し、マスコミや教育(幼稚園から大学まで)など、社会の各領域を侵食している。そこでは「体験」は、「身をもって経験する」という名の下に、しばしば知識・反省・理性的な批判精神を軽蔑する無責任な軽薄さの自己正当化となっている。体験学習・体験稲刈り、一日駅長、さらには流行歌の歌詞や週刊誌記事のタイトルとしての「体験」などを考えてみればよい。かつて自分たちの知の共同性を守ろうとして現実世界から背を向けた「象牙の塔」が結果的に知の共同性を破壊したように、現代の孤独な知は、新たな共同性のよりどころを反共同的な体験至上主義にもとめ、へつらい、長期的・全体的な視野を欠いたその場限りの役に立つ知識、儲けになる知識へと殺到する。「体験」という呪文の前に人々は敬虔にひざまずき、すべてを理解したような気になり、その本質を探求しようという勇気を失う。

 そのような自己中心的・刹那的な体験至上主義は、一方で現代社会の問題として指摘されながらも、他方必ずしも排斥されない。なぜならそれは現在の社会・経済システムにとってきわめて都合のよい精神構造だからである。「体験」の独我論へと頽落した個人の自由は、現代の大衆消費社会に至って新たな役割を引き受けることになる。大衆消費社会は、商品を注文に従って生産するのではなく、あらかじめ大量に生産しておいて、なるべく大勢の人々にその商品についての欲求をおこさせ消費させる、という構造を持つ。そのために「広告」が決定的な役割を果たすことになる。その際、要不要を理性的に熟慮することなく「好き嫌い」を基準とするような盲目で非合理的な「欲求」、「感じ」を自由意志のよりどころとすることは、消費の拡大におおいに貢献するだろう。本人を含め、なにびとといえども本質的にはその人の欲求を論破できないからである。

 だから現在の日本社会には、そのような非合理的体験至上主義を啓蒙するような教育を商売敵とみなし、金儲けにならない知を無用なもの(実は危険なもの)として見下す風潮があちらこちらに見られる。そのような現代の体験至上主義は、批判精神としての哲学を窒息させる。

 こうして、「個人の自由」は、大衆消費を支える「体験至上主義」へと変質しているが、このような状況において「自由」を無反省=盲目に絶対的な拠りどころとして維持し続けるなら、理性的共同体の構築という本来の啓蒙主義的な理想とは裏腹に、共同性の破壊を助長する危険が大きい。神戸の中学生による殺人事件というような悲しい出来事も、犯人の少年個人の問題にとどまらず、上のような自由に関する現代の矛盾が底辺にあると推測される。命の尊さを教えることが、かならずしも殺人その他の犯罪を防ぐことにはならない。それは、個人の自由が体験の独我論へと頽落した現代=近代末期に、むしろ自らの体験・心情の確かさによって殺人を企画するものにとって、説得が不可能になるという状況も考えられる。

 ショーペンハウアーの生きた時代は、アメリカの独立宣言、フランス革命などにみられるような近代市民社会の成立期、産業革命の時代であり、個人の自由という偉大なる物語が語り始められた時代でもあった。カント以降、ドイツ観念論の系譜に属する思想家たち(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ショーペンハウアーら)は、それぞれ独自の方法で、一方で近代市民の精神 ― 新たな存在秩序の構築 ― を「意志」として表現し、既成の存在秩序の認識に携わる知性よりも優位にあると認めつつ、他方、新たな存在秩序の構築への意志によって引き起こされる共同性の崩壊と個人の孤独化の問題を敏感に感じ取っていた。そのような伝統の中でショーペンハウアーは、意志の否定の哲学によって、もはや原則的には疑うものがいなくなりつつあった近代市民の存在構築の精神そのものに疑問を投じ、さらに意志の否定こそが真の自由であると述べることによって、「偉大なる物語」が覆い隠そうとした自由のまざまな契機を私たちに想起させてくれるのである。

 それらの契機を取り出すために、「自由」概念が「偉大なる物語」、近代の神話へと形づくられていった歴史をたどってみることにしよう。


自由観の歴史 ― 自己解放から自己主張へ

 西洋東洋を問わず、古代文化では一般に「自由」に相当する言葉(古代ギリシャでは 'ελευθερια)が、現代の私たちが考えているような意味での自律、ないし存在構築的な原理としては捉えられていなかった。自由とは、他のものに拘束されない状態、奴隷でないことを意味した。そのさい、「奴隷でない」とは、社会的な身分において主人に隷属せず、自分自身が公民として(ポリス的・政治的に)行動できるということだけでなく、公共的な生き方を阻むような性向(共同性を破壊する無知と自己中心主義)にも隷属しない、ということを意味した。自由とは、環境世界と調和的に生きる人間が、その存在の秩序に占める位置を認識・承認し、それにふさわしく「よく」生きるさまであり、それを阻む外的・内的な契機から解放されて自己自身である(Autarkie)状態である。自己自身が立法者となって自己及び存在全体を原則によって操作・支配しようとすることは、その同じ原則に従い、操作・支配の対象として拘束されうることの裏返しに過ぎないのである。その意味で、古代的な自由は、倫理的原則(規範)を示したり、これに基づいて決断するという意味での積極性は持たない。『意志と表象としての世界』第4部に展開されるショーペンハウアーの倫理学は、こうした古代的な自由観の系譜ととらえることができる。

 キリスト教や仏教などの古代末期に生まれた世界宗教においては、人間の存在をほんとうに脅かすものは、この世の力ではない。むしろ、人間の内部に巣くう悪しき本性 ― 個としての、及び共同性としての人間のアイデンティティを、死と無秩序という二種類の無によって崩壊させる「自己中心」である、という認識が重要になる。だからこそ、古代を起源とする諸宗教では、「罪」「無明・執着」といった表現がキーワードとなっている。このような自由観は、基本的には中世にまで引き継がれる。しかし同時に、自己と存在の現在を否定しつつ新たな存在秩序を構築しようとする自由観の萌芽が見え始める。

 「自由」を自律へと読み替える萌芽は、すでに外的・内的な隷属状態からの解放という人と環境世界の調和を表す本来の意味を超え出て、自由に一定のポジティブな内容を与えようとしたときにあらわれていたと言ってよい。例えば、古代ローマにおいて、奴隷に対する「自由人」という名詞化が定着し、中世ヨーロッパにおいて、神聖ローマ皇帝直属の自由都市は、諸候の支配、ことに納税義務からの解放という古代的な意味を持ちながらも、同時に都市の自己主張として、建物や城壁によって具体的に知覚できる都市空間に自由という名が冠せられたことに注意したい。しかしそれは、近代市民社会における自由の実体化・神話化に向かっての布石に過ぎず、「自由」という言葉は全体としては環境世界に調和的にかかわっていることを意味した。


近代市民社会における自由の自己目的化と神話化

 自己構築・存在構築としての意志の自由を確立するためには、その秩序の実現を正当化し、その実現にむけた基本的な戦略をしめし、同時に実現への障害を取り除く、いな、そもそも障害が発生しないための方策が求められる。存在構築の総司令官としての自由意志は、それらすべての作戦に必要な指針を与える指令系の頂点を占めることになる。この体系を確固としたものとするために、1) 自由の自己目的化(存在構築する自由から、自由を実現するための存在構築へ)、2) 更にこの自己目的化を封印する神話化(「自由」をひとつの呪文と化し、原則的な問いを封じ込む)が行われることになる。

 「自由」の自己目的化は、近代市民社会の生成と並行して進む。既成の秩序の支援を受けられず、むしろ妨害を受けるがゆえに、それらを否定して自己の企画力・企業力(自己構築・存在構築の意志)をよりどころとするほか活路のない近代市民は、自分たちの思考・行動様式自身をみずからの基盤とする。高められた主観性が実体性そのものとなるのであり(ヘーゲル)、それは自己強化としての力への意志(ニーチェ)なのである。こうして、自由な意志主体によって構成される自由な社会という近代市民社会の「偉大なる物語」が形成されていった。その行動においては、個の自律と民族の自治との並列に見られるように、個と共同性の統一(道徳律に従う善意志)が要請されたが、実際には、自己の欲求充足を目標に行動する独我論者・近代市民は、他の自律的主体との対立・葛藤を生み出し、強化してゆくこととなった。その極限状態を示す地獄絵としてフランス革命の恐怖政治が当時の知識人に与えた衝撃は大きかった。

 19世紀から20世紀にかけて、個別的意志と普遍的意志の調和(自律=自治)としての自由は崩壊して行き、個人は共同性への通路を失い、ばらばらの個人が経済活動を通して自己自身の欲求充足を実現しようとするようになる。孤独な個人たちは共同性の砕片を求めて、プライバシーへ、更に分割不可能な自己の体験へと逃げ込む。そのような現実にもかかわらず、一方では社会的安定のためには、近代市民社会に与えられた唯一の原理である啓蒙主義的な自由概念を堅持せねばならない。他方、大衆消費社会に移行した20世紀、商品の生産と販売の自己目的化は、体験至上主義の隠れ蓑として自由の自己目的化の思想を必要とした。そして、啓蒙主義的伝統をひく「自律・自治」としての自由は、植民地解放や西欧化運動の旗印として近代市民社会の辺境へと追いやられ、自由のドーナツ現象のなかで「先進諸国」では危機に瀕した「個人の自由」を維持するためにも「自由の神話化」を進めるのである。


自由の克服か、同苦(Mitleid)【註1】か?

 ショーペンハウアーは、自己構築・存在構築としての意志の行使が真の自由であると認めない。人間が、生物の自己形成・自己保存する力(広い意味での生への意志)を認識によって補うようになっても、その知性は基本的に生への意志へ奉仕するものにすぎない。経験的な認識は一定の時間空間に位置する個物を対象とするがゆえに、知性の発達とともに個別性を強く自覚するようになる。ことに近代市民は自己も他者も含むすべての存在を、それぞれ別々の「個」=意志の対象ととらえ、これに向かって自己の欲求充足のために合理的認識を駆使する。そのことによって人と人は衝突しあい、人と自然の壁に突き当たる。それが「苦」の根源である。【註2】個人の自由という「偉大なる物語」は、実は自己の欲求充足のための手段に過ぎない。

 このように「個の自由」がひとつの神話であることが暴露されても、われわれは依然としてこの神話に固有の語法によって語り、考えることを止めることはできないし、骨の髄にまでしみ通った「体験至上主義」を簡単にふるい落とすこともできない。それらを克服したあとに到来する世界をわれわれの語法で語ることは難しく、また危険でもある。ショーペンハウアーも実際、意志の否定に関してはきわめて慎重である。真の自由は、そのような盲目な意志の構造を認識し、否定する瞬間にしか存在しない。そのあとのことについては語らない(「無」としてのみ語る)のである。【註3】近代市民は、自分の理解できないものを、そのまま理解できないものとして受け容れられない。行為によって支配できないものでも、すくなくとも知的にマスターしようとする。近代市民は自由という偉大なる物語を支えに、未来の(自己自身の死を含む)存在の不確かさまでをも克服するべく、自己自身と全存在の秩序をみずから企画・実現しようとしたのであった。その偉大なる物語を放棄することは、すべての価値あるものの放棄、おのれの死を意味する。かりにその死が新たな愛の共同性を指し示しているとしても。【註4】

 それにもかかわらず、上のように近代市民社会の自由理解の意味を問うてきたわれわれは、少なくとも、個の自由の実現という偉大なる物語が唯一の、永遠なる真理ではないことを知る。全存在の確実な掌握を求める近代市民の自由意志にとっては理解不可能なもの、不確かなもの、不安なもの ― 操作・掌握の対象であることをやめたすべての人間・自然 ― をも信頼しつつ受け容れる別の思考・行動様式(新たな生き方)をも選択肢として考えざるを得なくなる。そこには、近代市民社会が押しつぶした人と人、人と自然の共同性について考える場所も再発見されるのではないだろうか。最近の環境倫理学をはじめとする応用倫理学においても、近代市民社会の攻撃的な「自由」理解への反省が重要な位置を占めており、ショーペンハウアーの倫理学、ことに動物保護の思想や同苦の倫理の出発点にもう一度立ち返ることは、近代市民社会の過渡期(終焉期?)に生きる私たちにとっては意義深い。

 ショーペンハウアーの立場から見れば、新たな共同性への模索には、近代市民社会で極端にまですすめられた個の自由の本質と運命(苦)への洞察がともなうべきである。個々の苦を個別的努力によってその場限りに「克服」すること(自己の生への意志の肯定)は、しばしば他の人(々)の犠牲(他者の生への意志の否定)の上になりたつ。むしろその苦がかくも増幅されることになった本質を見極めなければならない。苦の本質は個々人の自己中心主義であるが、その個々人の個別性の起源は、自己形成・自己保存としての生の意志を補強する認識の構造自身である。認識は徹頭徹尾、関心に従属する。それゆえに、この同じ仕組みが他者の苦しみと自己の苦しみとを生じさせる同一の基盤であることが了解される。 ― これがショーペンハウアーの生きた時代、近代市民社会の生成期の文化的背景から理解された同苦の倫理である。しかし、この「意志の運命」と苦の本質とを知る認識はどのような認識だろうか?それはもはや、純粋に生への意志に奉仕する意志の道具ではない。意志の補強手段として生み出された認識能力が、意志の道具という役割以上の機能を果たす、生の意志を補強するどころかむしろ沈静する機能を果たすようになるという逆説である。ショーペンハウアーの「意志の否定」の哲学は、ここを出発点として展開されていくことになる。



【註】

  1. 原語のmit-leiden は、その語に含まれるさまざまな契機のどこに重点を置くかにより、同情、同苦、共苦などさまざまに訳される。ここではさまざまな苦が、表象作用に伴う個別化、自己中心化という同一のできごとに由来することを強調するために「同苦」の訳語を継承する。[本文にもどる

  2. ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(中央公論社・世界の名著続10)558ページ(57節章冒頭)ほか。この問題はショーペンハウアーでは主として「個体化の原理(principium individuationis)」というキーワードによって第4巻全般で取り上げられている。正義、同苦、聖といった倫理的概念がすべて個体化の原理の洞察という視点から叙述されている。[本文にもどる

  3. 同706 ページ以降(71節)参照。[本文にもどる

  4. 私はここに、古代(キリストの十字架の死に示された愛)から近代(ワーグナにおける愛の死のテーマ、さらにはフロイト心理学の文化史的基底)にまでおよぶ「愛と死」の問題へのひとつの視点があると考える。[本文にもどる



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