ドイツ便り『ライプツィヒより』



 「ライプツィヒ」という地名を知ったのは、中学一年生の時だった。音楽の授業で、バッハの話を聞いたときに、アイゼナッハ、ケーテン、ライプツィヒという三つの地名がでてきた。他の地名もあったかもしれないが、覚えていない。泉周二という音楽の先生が、コーテンと読んでもいけない、ケーテンと読んでもいけない、などと謎めいたことを言っておられたので、ついでに、アイゼナッハとライプツィヒの名前も覚えてしまった。バッハは、小学校の合唱クラブでドイツ語の意味も分からず、「オーラムゴッテスウンシュールディッヒ・・・」(この歌詞は、十年たった今でも忘れていない!)と歌ったことがあったので、親しみがあった。さっそく「トッカータとフーガニ短調」のドイツアルヒーフ・ドーナツ版を買って、それから一月ぐらい、毎日憑かれたように聴いていた。ルドルフ・ヴァルシャイの演奏だったと思う。

 泉先生の研究室の上(中二階?)の部屋に、倫理社会の和辻夏彦先生(和辻哲郎のご子息)がおられて、そちらにもよく遊びに行った。この先生には、ずいぶん影響を受けた。おもえば、私の人生はそこから狂い始めた?のかもしれない。

 ドイツ統一後、アイゼナッハはアウグスブルクに次いで私の好きな都市になり、「知られざるドイツ文化史の檜舞台」などと言うサブタイトルを勝手に付けて、何度も訪れた。

 これに対して、ライプツィヒとの出会いは必ずしも順調にはゆかなかった。ドイツ統一後まもなく、1992年の春ライプツィヒを訪れたとき、車を停めて5分とたたないうちに酒気を帯びた男に殴りかかられた。恐れをなして、カフェでコーヒーを飲んだだけで退散した。それ以来、なかなか足が向かなかった。

 ようやく今回、ベルリンからミュンヘンへの移動途中に、わずか二泊であったがライプツィヒに立ち寄ることにした。かつてバッハが音楽監督をつとめたトーマス教会で、毎週土曜日の午後におこなわれる「トーマス教会でのモテットとカンタータ」と呼ばれる音楽礼拝がめあてであった。とにかく、こんなに「コストパフォーマンスのよい演奏会」(などと言う表現は不敬虔にすぎるか?)は経験したことがない。トマス教会少年合唱団・ゲバントハウスオーケストラの演奏が、入場無料(パンフレットは80ペニヒ)である。市民が気軽に来られるようにという配慮なのだろう。チェロの名器のような伸びのある若いテノール・バスに支えられて、グラスハーモニカのように澄んだボーイソプラノとアルトの四声 − まさに天国の響きである。リハーサルを聴きながら、反響の多い教会建築と、少年合唱団の声とをよく調和するように演奏を工夫しているな、と思った。

 本番の音楽礼拝の構成は、オルガン独奏、少年合唱団のアカペラ、合唱団と会衆の掛け合いによるコラール(右隣のおばさん、なかなかよい声をしていた)、少年合唱団とオーケストラによる演奏よりなり、最後のカンタータ「主イエスキリストよ、われは汝に呼びかける」BWV177の前に、カンタータのテクストに関連した講話と祈りがはいった。

 ライプツィヒは、革新的な町である。既成の常識に反することを許容する広さが、異文化への関心と寛容、政治的・文化的な改革を可能にしてきた。啓蒙主義と植民地主義が同居した18世紀のカフェの伝統が、旧東ドイツを内部から崩壊させたライプツィヒ民主化運動へと連なっている。しかしこの型破りの精神が、同じメダルの裏面で、社会秩序の軽視、気配りの欠如などにもつながりかねない。個人の主体性尊重と自己中心主義の調整に苦しむ西欧近代の縮図と言えるかもしれない。



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