ミレニアムのショーペンハウアー

Schopenhauer an der Wende
この小論は、『ショーペンハウアー哲学の再構築』(法政大学出版局)に収録されています。

第一章 転換期のショーペンハウアー哲学

はじめに

 世紀(センチュリー)といっても、あるいは千年紀(ミレニアム)といっても、それによって時の流れが変わるものではない。だれにもとどめることのできない時を、暦はデジタル化するだけである。永遠の相のもとで眺めるなら、千年紀の始まりも、一秒の始まりも質的  に異なるところがない、という人もいるだろう。しかし見方によっては無視できない違いもある。一年、十年単位までのできごとなら、人生計画の枠内で見渡すことも可能である。私たち自身の操作・介入によって決着がつくとさえ思われ(がちであ)る。これに対し、世紀や千年紀の更新は、いやがうえでも人の寿命を超える悠久の時の流れを想起させ、それに比べて個々人の生は、一瞬の寸劇にすぎないということを思い知らされるのである。近代における世紀、千年紀のかわり目に見られる異常なまでの興奮と頽廃とは、すべてを金儲けのためにイベント化・商品化する近代市民社会の習性を割り引いても、かれら(われら)の無限な自己創造・存在構築への意志と、その意志に重くのしかかってくる操作不可能な永遠との葛藤を表現しているようである。

ショーペンハウアー哲学はフランス革命に象徴される十八世紀から十九世紀への転換期を支配した問題意識を、カントおよびドイツ観念論と共有しつつ成立した。それ以来、十九世紀から二十世紀へ(ターン・オヴ・センチュリー)、二千年紀から三千年紀へ(ターン・オヴ・ミレニアム)というあわせて三つの転換期を経験し、その時々に特徴的な装いで、哲学の舞台へ登場してくる。しかし、共通するのは、自己創造・存在構築の意志と、その不可能との葛藤に苦しむ近代市民の運命へのまなざしであり、それがショーペンハウアーを世紀末の、ミレニアムの哲学者としてたえず呼び戻すことになる理由でもあるのだ。 


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